「#PTA放棄は子育て放棄」のトンデモ理論に思う放課後児童クラブの任意性。保護者会放棄は学童放棄ではない

 学童保育運営者をサポートする「あい和学童クラブ運営法人」代表の萩原和也です。放課後児童クラブ(いわゆる学童保育所)には、保護者の参加が求められる局面がいくつかあります。最近、SNSでよく見かけるPTAの話題を眺めながら、これまでずっと考えてきたことを改めて書き綴ってみます。
 (※基本的に運営支援ブログでは、学童保育所について「放課後児童クラブ」(略して児童クラブ、クラブ)と記載しています。放課後児童クラブはおおむね学童保育所と同じです。)

<任意性の問題>
 旧ツイッター(X)では、京都府会議議員と名乗る方をめぐりPTAについての投稿の応酬が続いています。全部をチェックしているわけではないですが、議員氏がハッシュタグを付けて「PTA放棄は子育て放棄」とアピールしていることは全く適切ではないと私は考えています。子育てを毎日、くじけそうになりながらも頑張っている、向き合わざるを得ない保護者が確実にいる中で、とてもPTAに関わる余裕がない人に「子育て放棄」と決めつける、なんら合理的な根拠を見いだせないことを選挙で選ばれた公人が堂々と触れ回ることは、言語道断です。およそ政治家であるならば、苦労し、追い詰められている弱き立場の者の日々の生活、権利をいかに守ることに注力していただきたいのですが、議員氏はおよそそんなことには思考が及ばぬのでしょうね。

 議員氏を批判する投稿は相次いでいますが、それで議員氏の姿勢や方針が変わるかといえば、そんなことはまったくないでしょう。私がそう思う理由は以下の通りです。
(1)「議員氏はPTAの存在を絶対的に必要としており、かつ、議員氏のある地域のPTAもまた確実にこの議員氏を必要としている(より正確には、必要とせざるを得ない)状況にあるので、他地域から何を言われても信念や立場が揺らぐことがない。影響がない。しかもそのような構造があるがゆえに、自分の考えや行動に非があるとは考えていない」
(2)「議員氏にとってPTAは(個人がそう思っているだけだとしても)重大な支持基盤であり票田であるとみなす存在であるので、そのPTAに関する批判は自らの選挙の当落を左右する重大な影響を及ぼしかけない。よって支持基盤たるPTA弱体化につながる意見には全く耳を貸す気はない。政治屋は支持基盤を侵食されることに生理的嫌悪感すら示しますからね」
(3)「地方議員である議員氏にとっては、このやりとりがどんな形であれ世間に名前と存在を知らしめている絶好の機会となっている。多数向けられる批判に対してすべからく木で鼻を括る対応をしているのは、強いマッチョな政治家イメージをアピールする絶好の機会。悪名は無名に勝る、を実行しているだけであって、議員氏にとって選挙の得票数になんら影響がない外部からの関りで名前をSNSで表示されることが将来への新たな挑戦の足掛かりにもなりうる。と本人だけが思っている」

 PTA大好き議員氏のことはこのぐらいにしますが、この奇妙な旧ツイッター上でのやりとりは、私に、放課後児童クラブの「任意性」について改めて考え直すきっかけにもなりました。PTAはその加入は任意にもかかわらず事実上の強制加入が強いられていることがPTAをめぐる問題の大きな一つと私は考えていますが(他には行政が本来費用するべき負担=コストを保護者に肩代わりさせている問題)、放課後児童クラブには任意性の問題も、強制の問題も共に存在するからです。

<早急な解消が必要な、保護者会が強制となっている仕組み>
 PTAのように、入らくてもいいのに入らなきゃいけない!おかしい!をはるかに超えるのが「絶対に保護者会に入らなければならない」という加入が義務となっている状況が放課後児童クラブの世界にはある、ということです。この場合、保護者会に入ることを拒めば放課後児童健全育成事業のサービスが受けられないということになります。
 強制となる例はいくつかあります。
・保護者会が放課後児童クラブの事業者そのものになっている。そのため保護者の参加が前提となっている。それを裏付ける保護者会の規程がある。
・市区町村によっては、入会入室を認める要件として保護者会の参加を要綱や基準で定めている場合がある。この場合は行政が保護者会参加を義務づけているといえる。

 なぜ強制的に保護者会への加入を求めるのかといえば、組織経営や事業運営、育成支援業務の実務上に関わる主に労務面のコストを保護者が担う、つまり無償の労働力として保護者を活用する、あるいは活用せざるを得ないからです。別途、必要な費用を準備することで経営や運営を専門に担う人材を雇用することができますが、補助金にしろ保護者負担金にしろ、別途、カネを増やす必要があります。なるべく低額で抑えたいなら利用者でありいろいろな技能を持っている保護者の無償労働を活用することが合理的だ、という判断があります。児童クラブ(当時は学童保育所)への補助がとても貧弱だった1970年代から2000年代ぐらいまでは、まさに、保護者運営の児童クラブは保護者全員が苦しい境遇の中でも力を出し合って支え合っていかなければクラブそのものが維持できなかった、という事実があります。その時点では保護者が運営に無理やりでも加わらねばならず、保護者会・父母会に参加しないことは許されない、ということはやむを得ない事情の下で正当性を持っていたと、私は理解しています。(それゆえ、つくり運動では学童保育所の設立と合わせて行政の運営をもセットで求めていたのは当然でしょう)

 この、保護者が運営に強制的に関わる仕組みは、過去に何回も主張している通り、私は早急に解消するべきだと考えます。かつてのように、児童クラブの運営に関する補助金が貧弱だった時代とは変わり、育成支援の体制補助の補助金も創設されたことで、まだまだ貧弱とはいえ絶対的に専任の従事者を確保できないことではない状況になったことがあります。その状況下において、保護者が運営に関する法的な責任を負えるとは思えないこと、負わせてもならないこと、現状は責任を負えない保護者が運営に関わることによって無責任体質をもたらしていること、無責任体質が及ぼす帰結として実際に実務上において責任を取らない者が貧弱な運営の関与しかできないがために荒廃している現場の事業者が多数ありそれが子供と職員の権利を著しく侵害している状態があること、などです。
 なお、直ちに保護者運営の仕組みが無くならない状況にある事業者においては、保護者1人1人がクラブや法人の運営に関与できる仕組み、例えばNPO法人の正会員であり議決権行使の形で経営にイエス・ノーを示せることと、希望する人は運営に直接、携わることができる仕組み(理事に立候補することが可能である等)は急いで整えてほしいものです。

 保護者の運営への強制関与を解消する手段は、保護者会や運営委員会など非常勤の役員陣が運営しているクラブによる合同運営、それによるスケールメリットを生み出して専従の経営者、運営者による児童クラブ運営に切り替えることです。同じ市区町村の範囲内だけでなく地域を超えて合同運営に踏みきることも当然必要です。その結果、運営する児童クラブが少なくとも100前後に達するまでになれば、保護者の意見を運営に反映できる仕組みを備えつつ、営利企業の勢力拡大に十分対抗できるだけの安定性と財政基盤を備えた、れっきとした企業体として存在できるでしょう。

<保護者運営形態でなくとも保護者会の強制?>
 児童クラブの運営が市区町村つまり公営であるとか、あるいは非営利法人でクラブの運営を専従の役員や職員が引き受けている場合も多いですね。そのような場合であってもクラブに保護者会があって加入が義務となっていることはこれまた珍しくありません。その場合の保護者会が、おやつ代の徴収業務があったり、イベントや活動、親子レクリエーションを企画して実施したりと役割は様々です。
 特に非営利法人が保護者運営を起源とする児童クラブである場合は、保護者が集まって運営するという伝統を引き継いで組織だけを法人化することが多いですから、看板は法人、でも中身は以前の保護者運営とまったく変わり映えしないということがあります。各クラブから毎年、運営法人の役員を強制的に選出しなければならない、という状況はまさにそれです。そのために保護者会も個々のクラブに存在しており、全員の強制加入の制度で運営され、そこで運営法人に送り込む役員を決めるほか、以前からの保護者運営時代のままの役員や係が維持されていることが多いのです。

 運営主体が行政や法人である場合、本来は保護者会は事業者、運営主体ではないはずですから、保護者会が無くなっても問題がないはずです。しかし、現実は存在している保護者会が多い。とりわけ、見かけだけ法人化しているものの実態は保護者運営と変わらない運営形態の法人の傘下にあるクラブの保護者会です。こういう運営形態の法人の役員は、個々のクラブにおいて無理やり選ばれた保護者、あるいや本心は嫌であっても自分がやると言わなければみんなが困るから、といった理由で運営法人の役員になる保護者が多いのですが、そういう役員を選ぶためにも保護者会が存在しなければならないのです。

 「望まないし、果たすこともできない運営に関する責任を、意欲も能力も無い者に負わせてはならない」というのが私の考えです。児童クラブを毎日安定して開所するには、職員をしっかりと雇用して子どもを受け入れることになりますが、それこそすなわち事業であり、継続的に安定して行うためには常勤の者が責任を持って施策を決め、状況を判断し、日々の事に対応しなければなりません。それは非常勤の保護者や地域の有力者では果たせません。

 よって私が考える、放課後児童クラブの任意性の問題は、強制性の問題に行きついてしまい、それは結局のところ「意思も能力も無い者が、子どもの安全を確保しつつサービスを提供することや雇用の安定など重大な法律的行為を担うことこそ無責任体質である。事業の継続かつ安定した実施と事業内容の質の向上には否定的な要素にしかならない」という、保護者など非常勤の者が運営する児童クラブがどうして事業の質が向上しないのかという、事業形態の本質的な問題に行きつくのです。児童クラブにおける任意性の隠れた論点はここにあると私は考えています。

 では、任意性を打ち出して、保護者運営でも任意で「私がやりたい」という人に任せていいものかどうか。これは難しい問題ですが、「経営者として責任を負う、使用者として責任を負う。事業の継続かつ安定した実施と事業内容の質の向上に役員として最善の努力を尽くす」という覚悟も姿勢もあるのであれば、問題はないと私は考えます。つまり責任を負う意欲と事業を実施できる能力がある、ということです。ただし現実的に、そういう人はまず滅多いません。それが問題です。というか、現実的にそういう人が多いのであれば、そのような積極的に関わる保護者が運営する放課後児童クラブがもっともっと数多く存在しているでしょう。そういう人が滅多にいないので、どんどん株式会社運営クラブが増えているのですから。

 さて、「保護者会が、保護者個人の参加の任意性を帯びること」がなぜ実現できないのかを考えると、それは事業運営に関わりのない保護者会が、なぜ保護者の参加を強制させるのかを考えることになります。そこには、運営法人に役員を送り出すだけためではなく、「惰性」が影響しているでしょう。過去がそうだったから今もそう。未来もそう。つまりそこにも無責任体質があります。本当に責任を持って保護者会の運営に取り組んでいる保護者であれば、「いま、わたしたちに必要な活動は何か。不必要な活動は何か。強制的な参加は必要なのか」を必ず検討し、事業の取捨選択を行って組織運営の磨き上げに向き合っているからです。その中で、もう使命を終えた役員や係は無くす、必要な任務を担う担当の役員や係は新設するなどの対応をしているはずです。そういうことが一切ない保護者会は、惰性でやっているに過ぎません。1つ1つの事業を見直していけば、おそらくもっとすっきりした組織になるでしょう。
 必ず誰かが担わないと困るような任務があり、そのために保護者会の参加を強制しているとしたら、その任務は果たして保護者会が担うべき任務なのかどうかを検討することが必要です。例えばおやつ代の徴収業務。職員がやればいいだけです。クラブで出るごみの処理。当然、事業者が事業者系ごみとして排出することが必要です。それを保護者が持ち帰って家庭ごみとしてゴミに出す、ということをやっている児童クラブが未だにあるようです。地域の条例などで許されているのでしょうか。本来は違法でしょう。そういう、事業者が事業として行うことを保護者が肩代わりしていることは、PTAの構図と似ています。なお、事業者が行うことになってその結果、必要な予算が増え、それを保護者が追加で負担することは当然だと私は考えます。「手伝うことはできませんが、費用負担もしません」は、ありえません。もちろん行政が費用を出すなら別です。

 いずれによ、任意性、「(役員や係などを)やりたい人が、やれることをやる」という当たり前のことが実現できていない状況は、私は問題だと考えています。「では、やりたくない人がやらないで済むなら、やっている人の負担だけが大きくなり不公平だ」という意見が出てくるのですが、私は「やりたいといってやるんだから、やらない人の分も含んで喜んでやれ」と言いたい。「やりたくない人の分までやりたくないよ」という人は、むしろやらないでくれ、と言いたいですね。本来、ボランタリーと言うのは極めて崇高な精神であって、任を背負わない人の分まで背負う、抱えることによってその崇高性を帯びるのです。ボランティアは単なる無償労働のコマではありません。他の人がやらない、やりたくない物事を進んで背負う、向き合うからこそ高く評価を受けるのです。

<任意性を徹底した児童クラブが必要だ>
 クラブを利用する人全員が何らかの労務や役務を担う仕組みは公平そうに見えて不公正です。当たり前ですが、それぞれの子育て世帯にはいろいろな事情があります。収入が豊かで何ら困ったことがなさそうに見える子育て世帯であっても、他人にはうかがい知れない事情を抱えて行き詰った子育てをしているかもしれない。

 そんな種々の個々の事情まではうかがい知ることはできません。一概に「これぐらいはやってほしい」と強制的に何らかの役員や係を押し付けることはあってはなりません。「では、だれもがやらないことで子ども達の楽しみが減ったらどうするのだ。キャンプや所外活動の係になり手がいないことで子どもの楽しみが減ったら?」という意見があるでしょう。私の答えはとても冷酷ですが「無理やり、係や役員を集めなければ実施できない行事やイベントを行う必要はない」です。それこそ「やりたい人が、やれることを考える」を徹底せずに、その事業の本旨を理解しない者が参加することは、事故の危険性が高まります。事業者が職員だけでやれることを考えればいいし、数人の保護者の参加が見込めるのであれば、その人数の範囲でできる活動をすればいいだけ。キャンプ、デイキャンプができなくなって子どもがかわそう!というなら、そう主張するあなたが係や役員を引き受けなさいと私は言います。自分は負担から逃れておいて他者に負担を求めるのは卑怯です。

 やれる人が、やれることを、やる。それも、やれる範囲で。とても簡単な理屈です。そのようにして例えば保護者会が解散してしまい結果的に今まで活動していた範囲が狭まったとしたなら、それは今までの活動が無理していたということ。縮小した中で「やっぱり、あれは必要じゃない?」と保護者たちが集まって、「あの活動だけはやろうよ」となって、「必要性から生み出した活動」こそ、本当に必要なものなのです。本来、児童クラブもそうやって誕生したはずですし。
 任意性を徹底していけば、本当にそのクラブにとって必要な活動や考え方は、生き残り、あるいは蘇り、さらにその重要性が輝いていくのです。保護者会への強制加入がなくなったって、何ら問題はないはずです。まして保護者会に入らない保護者が児童クラブに何か悪影響があるのかといえば、そんなことがあるなんて、私には想像がつきません。

 なお、児童クラブ側が、保護者に向けて、クラブにおける子どもの過ごし方や育成支援の実態について保護者に説明することは当然必要です。保護者は、クラブで子どもがどのように過ごしているか知る権利があります。クラブ側が子どもの育ちの様子を保護者一同に伝えるために催す集会は、保護者会とは切り離して考えてください。保護者がその場に集まる会議としての「保護者会」と、継続して活動に取り組む任意団体としてのまとまりである「保護者会」は、分けて考えましょうね。

 <おわりに:PR>
 放課後児童クラブについて、萩原なりの意見をまとめた本が、2024年7月20日に寿郎社(札幌市)さんから出版されました。「知られざる〈学童保育〉の世界 問題だらけの社会インフラ」です。(わたしの目を通してみてきた)児童クラブの現実をありのままに伝え、苦労する職員、保護者、そして子どものことを伝えたく、私は本を書きました。それも、児童クラブがもっともっとよりよくなるために活動する「運営支援」の一つの手段です。どうかぜひ、1人でも多くの人に、本を手に取っていただきたいと願っております。1,900円(税込みでは2,000円程度)です。注文は出版社「寿郎社」さんへ直接メールで、または書店、ネット、または萩原まで直接お寄せください。お近くに書店がない方は、ネット書店が便利です。寿郎社さんへメールで注文の方は「萩原から勧められた」とメールにぜひご記載ください。出版社さんが驚くぐらいの注文があればと、かすかに期待しています。どうぞよろしくお願いいたします。
(関東の方は萩原から直接お渡しでも大丈夫です。なにせ手元に300冊届くので!書店購入より1冊100円、お得に購入できます!私の運営支援の活動資金にもなります!大口注文、大歓迎です。どうかぜひ、ご検討ください!また、事業運営資金に困っている非営利の児童クラブ運営事業者さんはぜひご相談ください。運営支援として、この書籍を活用したご提案ができます。)

 「あい和学童クラブ運営法人」は、学童保育の事業運営をサポートします。リスクマネジメント、クライシスコントロールの重要性をお伝え出来ます。子育て支援と学童保育の運営者の方、そして行政の子育て支援と学童保育担当者の方、議員の方々、ぜひとも子どもたちの安全と安心を守る場所づくりのために、一緒に考えていきましょう。セミナー、勉強会の講師にぜひお声がけください。個別の事業者運営の支援、フォローも可能です、ぜひご相談ください。

 (このブログをお読みいただきありがとうございました。少しでも共感できる部分がありましたら、ツイッターで萩原和也のフォローをお願いします。フェイスブックのあい和学童クラブ運営法人のページのフォロワーになっていただけますと、この上ない幸いです。よろしくお願いいたします。ご意見ご感想も、お問合せフォームからお寄せください。出典が明記されていれば引用は自由になさってください。)