放課後児童クラブの保護者で、役員や係を何もやらない人がいます。ずるいですよね?なんとかできませんか?
放課後児童クラブ(地域によっては学童保育所や、学童クラブといった様々な名前が付いています)には、保護者会や父母会が設けられている場合があります。そして保護者会、父母会がある場合、保護者は必ず1回は、何らかの役員や係をやること、となっていることも多いようです。この時に問題となりがちなのが、役員や係を絶対に引き受けない保護者の存在。ずるい!と、他の保護者から不満が渦巻きます。なんとかならないの?
そのような思いは、「あんな大変なことを自分がやったのだから、他の人も同じようにならなければならない」という報復的な感情から出ていることが多くありませんか? それを「公平」という言葉をうまく使って「係や役員をやらないことは、不公平だ」という批判の言葉が多用されることになります。PTAも同じですね。
児童クラブには、いろいろな境遇の方がいます。とりわけ、種々の事由で、子育て生活に限界を感じながら過ごしている保護者もいます。経済的な理由だったり人間関係によるものだったり、いろいろあるでしょう。何らかのストレスや困難を抱えながら毎日、生きるのが大変な子育て中の保護者だっているでしょう。とても児童クラブにおける何らかの任務、作業を引き受けられない状況の人だっているでしょう。
大事なことは、「世の中には、どうしたって、なかなかどうにもならないつらい境遇にある人がいる。そういう人を追い込んで、何の徳(得ではなくて、徳)があるのか」ということを1人1人が考えてみることです。困ったときはお互い様、というのが実は児童クラブです。そもそも、働いている時間の子どもの居場所に困った人たちが作りだした仕組みが児童クラブ。困った人たちが助け合ってできた仕組みです。その困ったの度合いは人それぞれですが、「困ったときは、お互い様」の精神は、今も必要です。
「やれる人が、やりたいことをやる」で、いいのです。その考えを広げていけば、どんなに小さいと思われることでも1つの任務、役割をやってもらうことでも、その人は児童クラブにおける保護者の集まりに加わったことになります。たとえば、3カ月に1回開かれる保護者の集まりで「今から始めます」の掛け声をしてもらう。それだけの役割であっても、「役」を果たしたとすればいい。「そんなの不公平だ」というのは、なぜですか?自分のやってきたことと比べてあまりにも簡単だからそう思うのですよね。自分自身がやりたい、あるいは不本意としても引き受けたことは自信を持ってやりとげる。やり遂げた。それでいいじゃないですか。それ以上、他人に何を要求するというのですか。会長職も、掛け声1つを行う役も、「誰かが担った」ということでは同じです。不当に重い任務や業務がある役員や係があるとしたら、そもそもその任務や業務が本当に今の自分たち保護者、子ども、クラブにとって必要なのかどうかを点検することこそ、他者を責める前に必要な作業です。いらない任務、業務はどんどん削って役の重さ、負担を減らす努力こそ必要です。
もっといえば、やれる人がやれることをやる、その能力や状況に応じて、可能なことを担当することこそ、「公正」な考え方といえます。あまりにも家庭生活の状況が困難すぎる保護者には、役員や係を免除することも、公正な考え方です。それを判断するに事前に定められた基準、ルールを根拠に、会議体で話し合って決める手順があればなおさら公正でしょう。
そういうどんなに軽い任務ですら、まったくやらない、拒否をするという人も、現実はいます。ここでは、「そういう人がいるのもまたこの現実。児童クラブは、そうした保護者の子どももまた、同じように分け隔てなく大事にするところだ」という、崇高な意識を持ってほしいのです。確かに、ずるい!と思います。しかし、それ以上でもそれ以下でもない。人間は実はそういう人が大勢いるんだということです。「権利のタダ乗り!」と言って批判することで何かが変わるわけもない。であれば、そういうずるい人たちの事も含めて、「私たちは子ども達の健全な育成のために頑張っているんだ」で、いいじゃないですか。その頑張っている姿をもしかしたら、そのずるいと批判を陰で向けている人の子どもが見ていて、その子は「自分は他の人のために頑張れる大人になりたい」と、思うかもしれません。そういう未来を期待することに考えを向けてみたらどうでしょう。
公平かどうかより、公正かどうかを考えの基準としましょう。そして「困った人の力になる。それが保護者会、父母会の本当の役割」という方向転換を考えてみてください。
(運営支援による「放課後児童クラブ・学童保育用語の基礎知識」)