すべては「利益」、つまり「カネ」。拝金主義、利益至上主義がゆがめた多くのこと。お金は大事ですよ、でもね。

(代表萩原のブログ・身辺雑記。なお、本文と猫の写真は関係ありません)学童保育運営者をサポートする「あい和学童クラブ運営法人」萩原和也です。

 しばらくの間、世間を、メディアを賑わせている問題。過去にメディアの世界にいたわたくしにとっては、まったく別の世界の話ではありません。かといって、それに対して反省とか、あるいは批判とか、そのような言動を取ろうと積極的に行動を起こす動機がわいてきません。

 ただ思うのは、芸能界だけでなく、すべての商品というか、この国の社会全体に染みついた1つの価値観というか、行動様式というか、「こうしなければならない」という強迫観念が、もう修正の効かない段階にまで達してしまったのだという、せつない感情です。

 それはつまるところ、「カネを稼いでこそ正義。利益を上げなければ負け」ということが、「人間は、企業とは、かくあるべし」という「道理」や「筋」をはるかに超越するような社会になってしまったということです。

 超人気タレントや歌手、超人気アスリートを起用する番組は、視聴率が高くなる可能性が当然、あるでしょう。ファンが見てくれますからね。そういう番組には、スポンサーがついてくれるでしょう。視聴者数が多ければCMへの接触が増えて、商品が売れる可能性も高まりますからね。そのCMにも、超人気芸能人を起用したいね。話題になって商品が売れる可能性が高まるから。
 人気番組がある、人気企画がある、スポンサーがたくさんつく。話題のCMや広告がバンバン入る。放送も出版も、同じ構図。当然、メディア側は、人気タレントを起用したがります。むしろ、起用しなければいけない。競争に勝てないからです。業績が上げられないからです。

 当然、超人気者をマネジメントする側の方に主導権を取る余地が生まれます。「おたく、うちの批判したよね。もう、協力しないよ」と言われたら、それはメディアにとっては、業績上、致命的な問題になります。いわゆる「干された」状態に陥るわけです。例えば、ある役者の演技が批判された。するとその役者の事務所は、その批判したメディアに対して、役者に対する取材や出演の便宜をはかることをやめるのです。役者の事務所が役者を気遣っての場合もありますし、役者本人が拒否感、いわゆるNGを出すことだってあります。

 だからといって、メディア側がまったくの言いなりかといえば、そうではない。むしろ、「ぜひとも起用させていただきたい」と双方向でのやりとりになります。また、その超人気者に頼らずとも収益がしっかり確保できるなら、別にペコペコすることはないです。一時の有名夕刊紙や、今もスクープを連発している週刊誌はまさにそうですね。後者の場合は、あまりにもその母体の社会的名声が高いがゆえに、批判されたとしても出演、登場はするという珍しいパターンにもなっているようです。
(私が生まれる前の時代にも、超大手芸能プロダクションとメディア側との厳しい対立がありました。有名な話です。構図は昔から実は今も何も変わっていないのです)

 ただしこれは超人気者との関係においてだけです。そうではない場合は、圧倒的にメディア側が有利です。人気が出ていないタレントやアスリート、話題になっていない商品は、メディアにとって、無理して扱うだけの意味はありません。鼻であしらう態度で追い払うことは日常茶飯事です。特に一般人が対象ではとりわけそう。「カネにならない」ことには冷淡です。
(本当は、超人気者に頼らずとも、十分に人気のある、話題を起こせる番組やヒット商品は生まれるはずです。創意工夫次第で。ですが、その創意工夫をクリエイターたちが手間暇を惜しんで大事にせず、人気に便乗して人気を作るという安易な手法に陥っていることもまた、反省するべきだと私は思います)

 メディアと超人気者との関係だけではなく、ありとあらゆるところにおいて、「それは儲かるか、儲からないか。カネになるか、ならないか」の関係が、蔓延しています。商品だって、サービス展開だって、公共事業だって、福祉事業だって、みんなそうだと私には思えます。

 儲かるか、儲からないかが重要。それはある意味正しいのですよ。利益を上げなければ、雇われた人たちは満足な給料をもらえませんから。雇う方も、儲からなければ、事業を続けられませんから。だから「儲かることは必要であり重要」なのです。

 ただ、儲かることが「正義」ではないのですよ。実は陰で違法行為に手を染めている者と手を組んで100億円もうけるのと、清廉潔白な者と手を組んで1億円しか儲からなかったのでは、私なら、清廉潔白な人と組んで得た1億円が、100億円以上の価値があると思います。ただそれは観念的なものにすぎません。99億円あれば手に入るもの、実施できる事業は、どうしたって手に入らない、実施できない。その欠けることに対して「仕方ないよね」と思えるかどうかの問題です。

 では、清廉潔白な人と組んで赤字になったら?これは困りますね。だからといって、違法行為に加担するようなことは、私は絶対に嫌です。やはり、赤字になるのを覚悟で、やはり、違法行為に加担するような人とは手を組まないことを選ばねばならないのです。それが、つらくても「道理」であって「筋」であって「社会正義に恥じない態度」と、思うのです。

 世の中、すべての人が、違法行為や、違法ではないにしても道義上、望ましくないことをしないでビジネスや事業に取り組めばいいのですが、世の中、そんなことは不可能です。悪いことをしでかすのも人間であるからこそ、です。人間の倫理や正義感を絶対的に期待して信頼することは不可能だと私は思います。その点を誤る、すなわち人間は完璧である、完璧であらねばならないということを信じ込むと、過去の全体主義や地獄のような主義主張の世界に陥ります。過激派たちの集団リンチや、ポルポト政権が良い例でしょう。

 だからといって、陰でうまく立ち回っている人たちだけが得をする社会も嫌ですね。やはりここは、法令という、少なくとも表向きは無視できない社会のルールによって、特に権力的に上の立場になる側、組織で稼いだカネをどう扱おうか決められる立場にいる側に対して、その行動の幅を制限するような仕組みにするほかないと、私は思います。それは例えば、経営状況のチェックでもいい、カネの流れの透明化でもいい、内部通報のさらなる推奨とその褒賞の充実でもいい。とにかく、「強い立場にいる側」が、ひどいことをしでかすことができないような仕組みを強制的に取り入れるほかないと、私は思っています。

 お金は大事ですよ。でもその大事さゆえに、道理や筋を曲げてはならない。やっぱり、超えてはならない一線はある。それを法令、ルールと言うもので呈示する。そして同時に、カネでは得られない幸せがあることを実感できる社会であり、世の中であるために、この国の政治がしっかりしてほしいと願うばかりです。

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