がくどう思い出話その4 放課後児童クラブ(学童保育所)と、わたくしの関わり、そして自らの思想について語ろう。
放課後児童クラブ(いわゆる学童保育所)運営者と働く職員をサポートする社労士「あい和社会保険労務士事務所」代表の萩原和也です。放課後児童クラブを舞台にした人間ドラマ小説「がくどう、 序」が、アマゾン (https://amzn.asia/d/3r2KIzc)で発売中です。ぜひ手に取ってみてください! 「ただ、こどもが好き」だからと児童クラブに就職した新人職員の苦闘と成長、保護者の子育ての現実を描く成長ストーリーです。お読みいただけたら、アマゾンの販売ページに星を付けていただけますでしょうか。そして感想をネットやSNSに投稿してください! 最終目標は映像化です。学童の世界をもっと世間に知らせたい、それだけが願いです。ぜひドラマ、映画、漫画にしてください!
 久しぶりの、がくどう思い出話。前回は6月14日でした。実は10月31日は、わたくし萩原にとって心にずっと残る日付です。今回は、わたくしがどうして学童保育に関わるようになったのか、どういう思想でが鵜同保育に関わってきたのか、その経緯を紹介します。まあ、センチメンタルにひたった長い長いストーリーです。
 (※基本的に運営支援ブログと社労士ブログでは、学童保育所について「放課後児童クラブ」(略して児童クラブ、クラブ)と記載しています。放課後児童クラブは、いわゆる学童保育所と、おおむね同じです。)
<学童保育所との関わり>
 わたくしは、もともと放課後児童クラブ、わたくしの居住地では学童保育所という呼び名ですが、単なる利用者でした。夫婦共働きの一人っ子、保育所も0歳児からの入所で、当たり前に学童保育所に入所しました。入所の手続きは奥方がほとんど済ませてくれました。学童に新規入所したときはNPO法人運営になっていましたが、確かその3~4年前に、個々の学童保育所の保護者会運営から市内の学童保育所の運営を一体化する法人化に踏み切ったばかりで、職員の人事労務面以外については、まだまだ保護者が運営業務を担っていた状況でした。もちろん、保護者会はありました。
 息子が1年生のときは、保護者会での役割はいわゆる「係」、個別の任務を担うだけの役割です。一番最初に出席した4月の保護者会総会ではキャンプ係に名乗り出ました。単純に「楽しそうじゃん!」と夫婦で意見が一致したからですが、進んで名乗り出たのは萩原家ぐらい。いわゆる「学童キャンプ」がとても大変で最も避けるべき係だという認識が広まっていたのは後で知りました。それほど、学童のことはよくわかりませんでした。
 当時、わたくしは夕刊フジの記者でした。夕刊を作る仕事なので朝が早い。夜も実は取材や情報収集でどの記者も忙しいのですが、夕刊フジはとてもおおらかな職場で、記者が毎日午後4時すぎに職場から消えても別に誰も気にしません。しかも非常に幸運だったのは直属の上司(次長)が、働きながらの子育てにとても理解のある方で、「気にしないでいいよ」といつも声をかけてくれたことでした。その次長はその後ものすごい出世して、しかも年齢がかなり重ねてからお子さんに恵まれたということもあって、子育てに関しての書籍を出版したり講演もされています。仕事とは、職場にどれだけ、理解がある人に恵まれるかどうかで働きやすさが決まるものですね。制度ではなくて人間関係で状況が決まるのは前時代的であるともいえますが、今もやっぱりそれが現実です。
さてさて学童生活は基本的にわたくしがこどもの迎えに行く役割でした。ですので、迎えに行くたびに学童の職員と顔を合わせます。学童の建物内に入って、元気に過ごすこどもたちを関わったり、ときには余ったおやつを頂いて味わったりしていくうち、こどもの様子、どういうふうに友達と関わったか、過ごしているか、こと細かに話してくれる先生たちであることにとても安心しましたし、「他者から理路整然とした情報を取ることの難しさ」を記者として認識していたわたくしには、「貴重な情報を的確に伝えてくれる、学童の先生たちは、とても難しい仕事をしているぞ」と、児童クラブの職員に対する認識を早々に改めることになりました。それは同時に「学童は放課後や休みの日にこどもたちが単に過ごしている場所ではないな」という認識を新たにしたことでもありました。そして、「こんな高度な仕事をしているのに、給料って、たったそれだけなの?」という疑念が大いに沸きあがりました。「こどもの育ちに、子育てをする親に、もっとも必要で重要な仕事なのに社会から全然評価されていない!」という憤りもまた育てることになりました。
とはいえ、時には保護者会の日にちを失念して後日、「どうして欠席されたのですか?」と学童の先生に問われて「えっ?この前の土曜日の夜って保護者会だったんですか?」というやりとりもあったぐらい、まだまだ学童との関わりが薄い状態でもありました。
当時の保護者会は会長が3人いました。シングルマザーの仲良し3人組。学童あるあるですが、会長なんて誰も引き受けたくない。じゃんけんかくじ引きかで、残った3人のうち1人が会長をやることになった状態で、仲良し3人組ですから「3人でやります」となったようです。のちほど、しょっちゅう一緒にカラオケに行ったりわが家で飲んだくれたりした3人になりましたが、当時の3人は保護者会運営などやりたくないのがミエミエで、「NPO法人本部からの報告は、なんか難しいことを言っていたようですけれどうちの学童に関係なさそうなので、無いです」というあっさりしたものでした。当時は、NPOが主催して全クラブの会長が参加する会議が毎月開かれていて、そこで法人の方針や決定事項が各クラブに伝えられるという形態でした。「代表者会議」という名称でしたが、その代表者会議に3人とも出席しなかったり、出席した1人が保護者会に欠席したりで、ろくに法人からの情報がクラブまでに伝えられていなかったのですね。それがのちにわたくしの運命を大きく変えますが、それはまたいずれまたブログで紹介しましょう。
年度末が近づいて、会長3人から話がありました。会長をやってくれないかと。そういう地位に何の苦手も遠慮もない萩原家夫妻ですから即座に了承しました。3人は「会長を即座に引き受ける?」とあっけにとられていましたがそれ以上に「次の役員決めの苦労をしないで済む!」と喜んでいました。学童の先生も喜んでいました。のちにわたくしはその先生を雇用する立場に回ったのですが、当時、息子が通っていた学童の先生は文句なしに日本で指折りの優れた見識と技量をそなえた、学童業界では有名な「学童指導員」だったのです。また、息子の同級生で難病のこどもがいました。この子のこともいずれブログに書いてみたいのですが小学校の普通学級も学童保育所も利用、入所入学を断られたほどの子でした。結局、その子の両親の奮闘で息子と一緒に保育所から小学校卒業までずっと一緒に過ごすことができたのですが、その子の加配職員として配属された職員もまた、とても優れた指導員でした。当時はパート職員でしたが、その後、三顧の礼で正規職員になってもらいました。なおこの方の考え方や援助、支援の向き合い方、もって言えば哲学は、わたくしの小説「がくどう、 序」にも影響を与えていることでしょう。
<保護者会会長、そして法人役員になって>
 先に関わり方の時系列だけ紹介しましょう。
息子が小学1年生(2009年度) キャンプ係
息子が小学2年生(2010年度) 夫婦で保護者会会長 ←2011年3月に東日本大震災でした。
息子が小学3年生(2011年度) NPO法人常任理事、クラブでは会長補佐
息子が小学4年生(2012年度) NPO法人代表理事、クラブでは最終年度まで役員会メンバー
息子が小学5年生(2013年度) 同上
息子が小学6年生(2014年度) この年の7月31日付で新聞社を退職、8月1日付でNPO法人の専従
 
 2011年度は財務委員長として法人の財政に関わり、その後はずっと代表理事として法人運営の責任を担いました。ただし、2014年8月までは非常勤、つまり新聞記者が本業でしたので、日常の業務執行の差配は専従の事務局長が担っていました。言ってみれば、当時のNPO代表理事は、代表権のない会長のようなもので現実的に経営責任、運営責任は事務局長が担うという形態です。
 しかしそれがその通りなら代表理事はお気楽なもので、飾りで済みましたが、児童クラブの経営、運営はとても至難の業。しかも当時は、子ども子育て新制度の実施を控え、児童クラブの世界は激動の真っただ中にありました。書けませんが極めて深刻な事案もいくつかあって、代表理事として関係各位に折衝したり謝罪をしたりということも多かった。「保護者が事業者の経営責任を負う、事業運営に関わるということは現実的に難しい」ということを痛感しながらの日々でした。運営していたクラブが比較的多かったこともあります。当然、予算額も数億円規模でした。雇用する職員数も正規職員だけで数十人いました。補助金と、保護者からいただくお金を無駄なく事業につぎ込むことの難しさを痛感した日々でした。わたくしも、決して軽い神輿になってはいけないと覚悟をしました。
1つだけ「まったくもう!」と思ったことを紹介しましょうか。NPO法人主催の、とある大きなイベントがありました。地元の市議会議員、県議会議員だけではなく国会議員も大勢参列するようなイベントでした。国会議員だけにはスピーチの時間を割り当てていましたが、事情があって時間が足りなくなってしまい1人の国会議員のスピーチの時間が確保できなくなったのですね。事務局長が話をして了承を得たということでしたが、数日後、わたくしの職場にその議員の地元秘書から電話があって、それはもう、どえらい怒り方で「うちの先生に恥をかかせた。代表理事なんだからきっちり謝罪に来い!さもないと、ねぇ?」という一方的な要求でした。まあ確かに団体の代表はわたくしです。外部からみたらそりゃそうです、代表理事なんですから。ただイベントの差配ふくめて日常的な業務は専従の事務局長が担っていた。しかしそれは内輪の理由で外部の第三者には通用しません。まったくもってこちらの、わたくしの失態でした。つまらないことですが、相手は有力者で知られていた議員です。市政に強い影響力のある方でした。ということは、どこでどういう影響が出るか分かりませんから、事務局長には「ここは私に任せてください」と手出しを控えてもらい、なんとか議員に詫びを入れて事なきを得ました。
 2015年度がスタートすると、実質的に法人経営と児童クラブ事業運営の責任者である事務局長にわたくしが就任しました。「実権があるようで無いけれども外部から見れば責任を負っているとしか見えない」代表理事には、それまでの理事会で何度も一緒に難局を潜り抜けてきた仲間に「いずれ、組織を改革して私が引き受けるから」という約束で代表理事に就いてもらいました。組織のあり方、統治形態を変えるのは難しいのです。いや、簡単にやろうと思えばできます。完全トップダウンで「来年度から保護者が代表理事、専従者が事務局長で実権を持つ形態を変える」として無理やりに規程類を変えていけば良いだけですが、NPO法人はそういう強権的な組織統治とは本質的に相いれないものです。わたくしは丁寧に理事、会員そして職員に対して、組織を変える目的と効果をかみくだいて説明を重ね、何年もかけて組織統治形態を変える準備を進めていきました。
 登記上の代表者と、実際の組織の経営責任者が同一とする組織改編が完了したのは2019年度でした。そのときに、わたくしが理事長兼事務局長となり、法律上も、実務上も、最高責任者となりました。
 なお、保護者が業務運営に関わって業務上の責任を少しでも負うことは絶対にあってはならないとして、その方面に関しては先行して業務執行の形態は変えていきました。希望しないのに無理やりに業務に関わらされた保護者に業務の責任を負わせてはなりません。実際、何かあったときに事業者だって責任を問えないでしょうに。よって各クラブから理事を強制的に出させることは数年内に取りやめて完全に任意の応募者だけにしましたし、利用料や時間外料金徴収、入退所手続きに関する業務は相次いで撤廃しました。結果的に保護者である理事は激減しましたが、それは当然ですし予想の範囲内でした。保護者が担っていた業務を現場の職員に担わせたことで職員の業務負担は増えましたが、保護者が運営に関して責任を負うことは比較的早期に解消することができました。
 当時、あちこちからよく言われたました。「萩原さんは学童の保護者を利用者にさせようとしている。おかしい」と。わたくしは「保護者は利用者ですよ。サービスを受ける立場。利用者になってもらわなければ困りますよ」と言い返したものでした。あえて「サービス」という単語を使うと、多くの人がさらに怒りを燃え上がらせるのが見て取れて面白かったですね。児童クラブの業界に巣くう人は本当に「サービス」という単語が大嫌いですから。「保護者が満足するサービスを事業者として提供すること。それができなければ保護者からノーを突きつけられておしまい。それはつまり、自治体から選ばれない事業者になるということ。それでもいいんですか?」と決まり文句のように話していましたね。
 もちろんわたくしの取った手法は客観的に見れば強引であったでしょう。しかし時間の余裕はないと考えていました。それほど、児童クラブを巡る情勢は目まぐるしく変わっていました。人手不足は悪化する一方でしたので、わたくしが新聞記者の職を捨ててでも児童クラブの運営に関わろうと決めた、「学童の先生たちの雇用労働条件がひどすぎる。給料が安すぎる。そんなことは社会正義において許されない」という強い覚悟を実際に行動に移したのでした。自分の報酬はそこそこにどんどん給与を上げました。しかも育成支援の質を高めるために常勤2人態勢を極力維持しました。おかげで常に事業体の経営は苦しかったですが、「いずれ常勤2人態勢の補助金ができるはず。そうなれば経営はたぶん、落ち着くだろう」という確信がありました。もっともその予想が実現したのはだいぶ遅れて、わたくしが第一線を退いてからとなりましたが、予想は外れはしなかったですね。
 改編において一番難しかったのは、保護者と学童保育所との関わり方です。たしかにわたくしは保護者出身者ですが専従役員となって、学童の現場とは一線を画している立場。しかし、保護者たちが作り上げてきた学童保育の歴史はどんなわずかな部分であっても後世に引き継ぐことは必要だと考えたのです。結果として、今までの構造をひっくり返すに近い手法で解決法としました。
(今まで)
代表理事=保護者→メリット:保護者が作り上げてきた学童保育ということが一目瞭然/デメリット:団体においては非常勤の保護者役員なので事業体経営、事業運営に責任を負えない。責任を負うのは専従の事務局長だが登記上、代表権は無かった。
(改編後)
理事長兼事務局長→メリット:法律上も実務上も双方において事業体経営、事業運営に責任を負う/デメリット:保護者が作り上げて続けてきた「保護者運営のスタイル」が変わることで、「保護者が運営している」という看板を掲げられなくなる。
この問題を、NPO法人の「会長」を置き、そこに非常勤の保護者に就いていただくことで解決したのです。会長は理事ですが代表権はありません。文字通り、一般の経済界の「代表権のない会長」そのものです。ただ、式典やイベントでのあいさつは常に最上位にすること、会長は「今まで培ってきた保護者運営の学童の理念の象徴であり、これからも保護者が関わる学童の良さを次代に伝えることが使命」としたのです。
 どうしてそういう小手先の工夫が必要なの?と思われる方が多いでしょう。それには理由がありました。児童クラブの運営を担いたい企業や団体に対して、自治体が「うちは、運営がしっかりできる保護者に学童を任せているから、企業さんの出番はありませんから。」と言える根拠を少しでも弱めたくなかったからです。役所というのは、今まで続けてきたことを極力、変えたくないものです。良い方にも悪い方にも変えたくはない。2~3年で異動する行政パーソンにとっては「異変を起こさず引き継げる」ことが最も大事なのですから、行政を惑わせる状況を作らないことに心を砕いたのです。
 実のところ、いわゆる広域展開事業者は、当時すでに市内に40前後に増えていた児童クラブ運営を虎視眈々と狙って行政担当課にしょっちゅう接触していました。今は50単位ぐらいになっているようですが、40前後でも一括して運営をすることができれば広域展開事業者なら余裕で億を超える儲けが手にできます。また、残念ですが地元の有力者にも「たかが保護者のくせに、5億円も6億円もの補助金を自由勝手に使えるなんて、けしからん!」と鼻息が荒い者が大勢いました。
 それら、児童クラブを「利権」として見たい勢力から、いかにして、先達たちが苦労して守り抜いてきた「こどものために、保護者と職員が手を取り合って考えていく児童クラブ」を後世に続けていけるのかを考えることが、わたくしの最大の任務であったと、当時は強く思っていましたし、今になって振り返っても、間違っていなかったと思います。
そのために、「保護者が、学童の理念を体現する象徴として会長の任を担ってもらう」ことと、「広域展開事業者に負けない効率的な運営と、毎年毎年交付され、しかも年々増額していく数億円に及ぶ巨額の補助金を手下の企業に任せたいと虎視眈々の地元の有力者の方々に付け入られるスキをみせない、厳正で公正な事業運営」が、事業の責任者として理解し実施することが必要でした。さらに「放課後児童健全育成事業の本旨を理解した、質の高い児童クラブの運営を常に目指す。そのために最も必要なのは、優秀な人材の雇用を長く続けること。それには雇用労働条件の絶え間ない改善」を理解して実践することが、必要でした。結果として児童クラブの運営が継続的に安定すれば、自治体からの信頼をさらに増して、それが将来にわたって児童クラブの運営を任せようという自治体(とりわけ、首長)の意志を生み出すからです。
その考えは、今でもそして他の地域においても十分に通用するとわたくしは考えています。
 「児童クラブの事業体の経営と事業運営は、その覚悟とスキルを常に磨く専従の立場の者が担うべし。児童クラブでの育成支援を継続的に安定させていくには、クラブで働く人の雇用労働条件を改善して、優秀な人材がずっと長く働き続ける環境を整えるべし」。そんなことを思いながら児童クラブの運営に関わってきたわたくしですが、2022年の10月31日でその立場を去って、こんどは全国の児童クラブにわたくしのその強い想いを伝えようと一歩を踏み出すこととしました。ですから10月31日は、この「あい和学童クラブ運営法人」の登記をした11月4日と並んで、わたくしにとってはとても大事な記念日なのです。
 全国の児童クラブの世界に向けて、そして制度を作ったり変えられたりできる方々に向けて、「このままではどんどん、児童クラブを儲けの手段としてしか考えない事業者がその勢力を拡大するだけだよ。児童クラブの世界を変えていかねばならないよ。そのためにもまずは児童クラブで働く人の給料を上げていこうよ。そこに立ちはだかる課題は1つ1つ、解決していこうよ。保護者が非常勤でクラブを経営、運営するような仕組みは時代の変化に対応できないよ」と伝えようという思いは、文字通り、一時も忘れたことはありません。10月31日は今までも、そしてこれからも、わたくしが生きている限り、その思いを新鮮にさせる日であり続けるでしょう。 
 (お知らせ)
<社会保険労務士事務所を開設しました!>
 2025年9月1日付で、わたくし萩原が社会保険労務士となり、同日に「あい和社会保険労務士事務所」を開業しました。放課後児童クラブ(学童保育所)を中心に中小企業の労務サポートを主に手掛けて参ります。なお、放課後児童クラブ(学童保育所)に関して、労働関係の法令や労務管理に関すること、事業に関わるリスクマネジメント、生産性向上に関すること、そしていわゆる日本版DBS制度に関しては、「あい和社会保険労務士事務所」を窓口にして相談や業務の依頼をお受けいたします。「あい和社会保険労務士事務所」HP(https://aiwagakudou.com/aiwa-sr-office/)内の「問い合わせフォーム」から、ご連絡のほど、どうぞよろしくお願いいたします。
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 「一般社団法人あい和学童クラブ運営法人」は、引き続き、放課後児童クラブ(学童保育所)の一般的なお困りごとや相談ごとを承ります。児童クラブの有識者として相談したいこと、話を聞いてほしいことがございましたら、「あい和学童クラブ運営法人」の問い合わせフォームからご連絡ください。子育て支援と児童クラブ・学童保育の運営者の方、そして行政の子育て支援と児童クラブ・学童保育担当者の方、議員の方々、ぜひとも子どもたちの安全と安心を守る場所づくりのために、一緒に考えていきましょう。セミナー、勉強会の講師にぜひお声がけください。個別の事業者運営の支援、フォローも可能です、ぜひご相談ください。
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New! ※当運営支援ブログにも時々登場する、名古屋の弁護士、鈴木愛子氏による「子どもが行きたい学童保育」(高文研)が発売されました。放課後児童クラブのあり方とその価値、本質が、具体的な事例に基づいて紹介されています。放課後児童クラブ、学童保育に関わるすべての方に読んでいただきたい、素晴らしい本です。とりわけ行政パーソンや議員の方々には必読と、わたくし萩原は断言します。この運営支援ブログを探してたどり着いた方々は、多かれ少なかれ児童クラブに興味関心がある方でしょう。であれば、「子どもが行きたい学童保育」をぜひ、お求めください。本には、児童クラブに詳しい専門家の間宮静香氏、安部芳絵氏のこれまた的確な解説も併せて収録されています。本当に「どえりゃー学童本」が誕生しました!
(https://amzn.asia/d/3QWpbvI)
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