うどん、の思い出

 放課後児童クラブ(いわゆる学童保育所)運営者と働く職員をサポートする「あい和学童クラブ運営法人」代表の萩原和也です。放課後児童クラブを舞台にした人間ドラマ小説「がくどう、 序」が、アマゾン (https://amzn.asia/d/3r2KIzc)で発売中です。ぜひ手に取ってみてください! 「ただ、こどもが好き」だからと児童クラブに就職した新人職員の苦闘と成長、保護者の子育ての現実を描く成長ストーリーです。お読みいただけたら、アマゾンの販売ページに星を付けていただけますでしょうか。そして感想をネットやSNSに投稿してください! 最終目標は映像化です。学童の世界をもっと世間に知らせたい、それだけが願いです。ぜひドラマ、映画、漫画にしてください!
 身辺雑記です。日曜日の投稿、これまでは激安料理を中心に投稿してきました。今回はまったく違う内容です。「うどん」の思い出をつづります。

<武蔵野うどん>
 本日(2026年1月25日)、お昼過ぎに家族3人で、うどんを食べにいきました。さいたま市の「寿庵」という有名店です。自宅から車で7、8分ほどで到着しましたからそれほど遠くありません。産業道路の本郷町交差点に割と近いところです。ずっと以前から気になっていたお店でしたが、なにせ超有名店で、けっこう行列もできているので、なかなか訪れる機会を作りませんでした。でも今回は、待ち時間を覚悟で向かったわけです。
 結果、20分ほど待ちましたが、無事におめあてのうどんにありつけました。理由は不明ですが昨夏、お店は移転してだいぶ席数を減らしたようでした。それだけに、比較的短めの待ち時間だったのは幸運でした。そしていただいた「肉汁うどん」、期待通りのすこぶる「うまい!」おうどんでした。うどんの麺は、硬すぎず、柔らか過ぎず適度な弾力で粉の味もしますし、うどんのつゆも、豚肉も、ネギもなにもかも美味でした。大満足でした。

 いただいた「肉汁うどん」は、武蔵野うどんの代名詞とされるものです。

 では武蔵野うどんとは何ぞ? 埼玉県を中心にいまではごく普通に耳にするうどんですね。うどんの麺はやや太めで弾力があり、というか硬めで、濃口しょうゆにかつおだしのつけ汁というのが基本形でしょうか。豚肉と茄子、あるいはしいたけを、しょうゆで煮るのが人気です。

<1970年代は、武蔵野うどんは聞かなかった>
 さてわたくしは東京都多摩市出身です。生まれたのは八王子市内の病院だったそうですが。3歳まで多摩市の関戸という場所、今でいう聖蹟桜ヶ丘駅の近くのアパートに住んでいたとのこと。記憶は99%ありません。ただうっすらと、自転車なのか、アパートや一軒家が立ち並ぶ景色を覚えているのと、聖蹟桜ヶ丘にあったボウリング場の階段の踊り場で、長いカーテンにくるまって兄と遊んでいた記憶があります。調べではボウリング場は1974年で閉鎖されているので、確かに3歳、4歳ぐらいの記憶です。
 それから家族で多摩市の連光寺というところに引っ越しました。家を建てているとき、基礎のコンクリの上で遊んでいた記憶ははっきりとあります。ということはまだそこには住めていないのですから関戸のアパートに住んでいたはずですね。棟上げ式で紅白のおもちがまかれたことも覚えています。住所は書きませんが、多摩市でもっとも標高が高い地点に家が建ちました。つまり多摩丘陵の丘の上なのですが、当時は雑木林に覆われていて、道路は砂利道でした。新居に住み始めてしばらくしたら弟が生まれましてね。産気づいた母を見舞いに父と兄とわたしの3人で車で八王子市内の病院に行き、それでも生まれなかったようで夜遅くに連光寺の家に戻って、3人で「ボンカレー」を食べた記憶があります。
 雑木林の中に建っていたわが家もやがて次々に木が切り倒され(シイタケの原木になっていきましたよ)、砂利道は舗装されてあっという間に交通量が多くなり、眼下に広がる雑木林はあっという間に造成されて、多摩ニュータウンが出現していきました。雑木林だった武蔵野の風景がニュータウンに移り変わっていく様子を、じっと見つめながら育ちました。だから幼稚園から小学生のときの実家の周りの記憶は「遠くから絶え間なく響くブルドーザーの轟音」です。

 そんな多摩の原風景が残る地域で育ったわたくしです。多摩丘陵の起伏の激しい地域に住んでいたので、田んぼなど周辺にありません。父親はその連光寺の豪農出身、ただし10人以上も兄弟がいてその下から3番目だったので、生存競争が大変だったようです。ごはんの奪い合いが激しかったという。しかも戦前生まれで、こどものときは米軍機の機銃掃射に狙われて間一髪助かったという話をしてくれました。「その時の機銃弾だ」と確かに12.7mm機縦弾を持っていました。近所では何人もの人が機銃掃射をくらって文字通り霧散していったということでした。(なぜそんな多摩の田舎に? 実は旧日本陸軍の軍需品の工場や倉庫がすぐ近くにあったのです。陸軍多摩火工廠、と呼ばれた施設で戦後は米軍に接収されて米軍のゴルフ場になりました。作家の浅田次郎さんの「日輪の遺産」の舞台となった土地そのものです。丘陵地の「谷」、谷戸(やと)と呼んでいましたが、湧水がそこかしこにあって、サワガニが住んでいたり貝が取れたりしました。湿気が多いので「ヘビ」もたくさんいました。そんなこともあってわたくしは蛇が大の苦手です。なにせ、蛇だらけの土地でした。

 さて丘陵地ですから田んぼがないのは記した通り。豪農なのに「銀シャリはめったに食えなかった。いつも、かて飯(=野菜がまじったご飯)だった」と父は話していました。あのNHKの「おしん」が大ヒットして、大根めし、が話題になった時は「本当の大根めしなんて、とてもまずくて食えたもんじゃねえんだ」とテレビに文句を言っていましたが。
 コメはあまり食べて居なかった。となると何を食べていた? そうです、「うどん」だったのです。

<多摩の丘陵地の農家に残っていた農作業の営み>
 わたくしが中学生になったのは1982年ですが、そのころまで、地元の連光寺では「麦ふみ」が行われていました。いまのこどもたちはなかなか経験することがないでしょうね。丘陵地の畑では麦が作られていて、それこそ連光寺でも麦が作られていたようです。狭い谷戸では水田がありましたが、水はけが悪く、腰まで沈むおそろしい田んぼだったようです。へびもぎょうさん。で、わたしも豪農の孫ということで、麦踏に駆り出されていたわけです。農家はですね、親族血族が結束して行動するのですよ。従わないと、えらいひどい目にあいますからね。もっとも子どもでしたから楽しんで麦ふみをしました。あと、茶摘みも駆り出されましたね。そのほか、「うど」(多摩地域の名産野菜です)の収穫の手伝い、シイタケ作りの手伝いも。タケノコ堀りもやりました。まだあたりでは「下肥」(つまり人糞)が当たり前に肥料で使われていたのも1970年代です。
 うどんは、農家の分家であったわたくしの実家でもおなじみでした。麦がとれた夏以降、日曜日の午後遅い時間になると、父は小麦粉をこねて、わたしに声を掛けます。「おーい、踏んでくれや」と。兄は家の手伝いは絶対しなかったですし長男ですから父親も手伝いをさせません。弟はまだ小さいので、となると家の手伝いは次男のわたくしが一手に引き受けることとなっていました。実際、なんでもかんでも男3人兄弟の中で一番、というかわたくしだけが家の手伝い、掃除洗濯も含めてやらされましたね。長男は後継ぎだから、三男はかわいい末っ子だから、ということです。まあ、わたしも別に嫌ではありませんでしたが。
 うどんを踏んで踏んでこねたら、つぎは父が平たくのばし、わたしが粉を打ちます。父は最初は包丁で、じきに手動の製麺機を買ってきたのでのちには製麺機で、こねてのばした小麦粉の塊を麺にしていきました。もちろんプロのうどん屋さんではないので、コシもへったくれもない、ふにゃふにゃのうどんがいつもできていました。うどんのつけ汁は、ほんのちょっとの豚肉を単に醤油で煮て、ナスを気持ちばかり入れただけ。ほとんど醤油の味です。それを、日曜日の夕方に食べるわけです。夏から秋の毎週。
 そりゃね、飽きますよ。わたくしも中学生になるころには「うどんなんて食わねーよ」と見向きもしなくなりましたから。それでも父はうどんをずっと作っていました。

<山田うどんは、メジャーだった>
 当時の外食では、いわゆる「そば・うどん」の店は普通にありました。出前を運んでくれる店ですね。いま大ブームの「うどん専門店」は、「山田うどん」しかありませんでした。山田うどんは埼玉県所沢市発祥だったと記憶していますが、多摩にも店がありました。かかし、の看板は多摩地域の人々にはおなじみです。ですので、1970年代から80年代初頭、多摩地域では、うどんといえば自宅で作るか、いわゆる「そば・うどん」のお店(増田屋、が人気でしたね)、山田うどんぐらいがメジャーなところで、「武蔵野うどん」というのは、わたくしの記憶では聞き覚えがありません。というか1980年代半ばまでは、外食でうどんを食う=山田うどんか、増田屋、という二択でしたね。
 1990年代になると「民芸うどん」がブームになりました。多摩地域にもいくつか店が増えました。うどんがこんなにおしゃれな食事になるなんて、民芸うどんが果たした効果は大きかったですね。それでもわたくしの周りにおいて「武蔵野うどん」という呼び名は、多摩地域で過ごしたわたくしの耳にはほとんど聞き覚えがありませんでしたね。

 武蔵野うどんが当たり前にメディアで使われるようになったのは、やはり2000年代になってからではないでしょうか。ラーメンブームのあとにうどんブームがきた、その流れに乗ったのではないでしょうか。さぬきうどんの旨さが知れ渡ったこともあるでしょうね。なお「そば」は関東ですから昔からたくさんそばの専門店はありました。うどんの専門店が以前はほとんどなかったのは「うどんは(多摩の土着の一族出身なら自分で作るか、出前で頼んで食べるか、スーパーの安いゆで麺を買って食うか」しか概念として持っていなかったからではないでしょうか。なお「水沢うどん」はもちろん超有名でしたが、あれは武蔵野ではなくて上州ですからね。「加須のうどん」は今でこそそ有名になりましたが、多摩地域までその名は響いておりませんでした。つまり、うどんは専門店で味わうのではなくて日常の食事でした。「すいとん」も同じぐらい多摩地域では普及していたと感じます。小さいころ、ちょくちょく、すいとんもまた食卓にのぼりましたから。

 さて、父親がずっと作っていた、コシのない、くったくたのうどん。父も老いて70代になるともうさすがにうどん作りはめったにしなくなりました。それでも、所帯を持ったわたくしがたまに実家に帰るときには張り切ってうどんをつくってくれました。そうなると、昔はあれほど食べ飽きたうどんが、とてもおいしく感じられるようになったのですね。不思議なものです。なんとも味の深みの無い醤油味のつけ汁も、とてもうまく感じたのですね。父親のつくってくれたうどんだから、なのでしょうか。どんなうどんの専門店よりも、おいしく食べられました。ひたすら真面目に働いて息子3人を私大に入れ、わたくし以外つまり兄と弟は大学院の博士課程まで終わらせて(兄は薬学、弟は工学)、ほっとしたのでしょう、定年後は遊び惚けてしまい、酒を浴びるほど飲んでスキルス胃がんで痛みを感じてから3か月もたたずにあの世に旅立ちました。亡くなってからもうすぐ10年が過ぎます。早いもんですね。

<多摩の伝習、民俗>
 今になってしみじみ思うのは、多摩地域に伝わっていた風習、特に農作業のことや日常の行事に関する風習をもっと正確に記憶し記録して後世に伝えることをしておくべきだったな、ということです。もちろん専門家がいらっしゃるでしょうから多摩地域の民俗については学術的に記録されていることと信じています。ただ、その場で過ごしてきた人物として、「こういうことがあった」という記憶はしっかりと記録に代えるべきだったなあと、悔やみます。例えば、家族が亡くなったとき、椅子に白い紙を貼って鬼門の方角の場所に置くなんて風習、記録されていますでしょうか。多摩地域でも江戸時代から続く家系でなければ伝わっていない風習のようでした。父が死んでから、地元の古老や地元の葬儀社から「こういうふうにしてください」と言われて実に驚きました。

 ただ、武蔵野に住む人々におなじみだったうどんは、すたれることなく今後も続くでしょうね。うどんを食べるたびに、関東の多摩の田舎の出身、かの地が今でも素晴らしく素敵な場所であることを思い出すわたくしです。 

 (おわり)

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萩原和也